般若波羅蜜多心経 現代語
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観音様がおっしゃいました
この世には
太陽もない
月もない
地球もない
銀河もない
宇宙もない
また
水もない
酸素もない
水素もない
原子もない
素粒子もない
私たちがあると思っているものは 全て
自分の眼や耳や鼻や舌や体や心で
見たもの
聞いたもの
嗅いだもの
味わったもの
触れたものが
意識の中で 言葉と結びつくことによって
その都度 作られているものなのです
つまり 私たちが見る見ないに かかわらず 初めから
「ある」と思われているどんな事物であっても
結局は 私たちの認識行為を通じて しか その存在を確認できないのです
だとすれば (それなら)
それらの認識行為の主体となる「自分」だけが
「ある」ということなのでしょうか
いや そうではありません
シャーリプトラよ
眼は自分でしょうか
耳は自分でしょうか
鼻は自分でしょうか
舌は自分でしょうか
体は自分でしょうか
心は自分でしょうか
私たちは、こういう言い方をします
これは「自分の」眼です
これは「自分の」耳です
これは「自分の」鼻です
これは「自分の」舌です
これは「自分の」体です
これは「自分の」心です
つまり 眼や耳や鼻や舌や体や心は
自分に「属して」いるものであって
自分「そのもの」ではありません
自分そのものを
自体としてどこかに見つけることはできません
自分さえも
どこかに独立して存在しているわけではないのです
例えば 見るという行為に依って
見られる主体が存在しているのです
逆に 見られる主体に依って
見るという行為が働いているのです
全ての物事は
これがある時 彼があり
これが生じることから 彼が生じ
これがない時 彼がなく
これが滅することから 彼が滅する
という相互に依存しあう
無限の相関関係をなして 存在しているのです
なんら 他のものと無関係に
独立して存在しているものではありません
全ては 空なのです
シャーリプトよ
苦しみとは
自分の思うがままにならないことをいいます
この世のいかなるものも
永遠に存在して続けるものではなく
全ては移り行き
変化していくものです
したがって(だから)
いかなるものも
自分のものであるとか
自分の思い通りになるとか
そのようにみなしてはなりません
つまり 自分のものにしたい
自分の思い通りにしたい
というような観念が 滅びた時に初めて
この世のあらゆる執着はとどめられ
煩悩の種子は滅び
煩悩の種子が滅するが故に
誤った考えから脱し
物事の真相を見ることができるのです
人は 常住不変なる実体を求め
いつまでも解決できない
形而上学的な論争を行っているがために
それぞれの見解に固執し
お互いに異なった執見を抱き
結局は 真理を見失っているのです
そうではなくて
人は
個人的な執着や偏見に囚われることなく
自己に固執する見解を打ち破って
心を浄め
わが身にひき比べ
自己を頼りとし
今この瞬間のうちに
真の人生の生きる道を求めるべきなのです
極端で一方的な考えを排し
時代や場所や民族の差を超えて
いかなる時
いかなる所
いかなる人に依っても
実践されるべき
永遠の理法を求めるべきなのです
そして このような行為は
自分以外の存在と
相互に依存しあう関係において成立するものですから
自分以外の全ての生き物に対して
慈悲の精神を持って実践すべきなのです
慈悲とは
生類を慈しみ悲しみを 共に分かち合うことです
この故に 菩薩たちは
般若波羅蜜多を拠り所として
心に
なんの覆いもなく
なんの妨げもなく
なん恐怖もない
全く解放された境地に到達しているのです
そこには もはや心と呼ぶべきものなく
自在に観ずるのみの
ニルヴァーナ の境地が広がっているのです
ニルヴァーナ とは
どこか遠いところに存在しているのではありません
私たちの現実の生活を離れたところに
ニルヴァーナ という別の世界が
存在しているのではありません
相互に相よって起こる諸事象が
生滅変遷(しょうめつへんせん)する姿を
凡夫の立場から見た場合に
それを輪廻と呼び
同じ事象を解脱した立場から見た境地が
ニルヴァーナ と言われるものです
私たちは日々の迷いから抜け出し
ニルヴァーナの彼岸に渡りたい 思っていますが
ニルヴァーナという実体が
どこか別のところあるわけではありません
ニルヴァーナに憧れるということ自体が
すでに 迷いであり苦しみなのです
生死往来(しょうしおうらい)する状態が 輪廻であり
一方で その本来の姿が ニルヴァーナ なのです
輪廻はニルヴァーナに対して いかなる区別もなく
ニルヴァーナは輪廻に対して いかなる区別もありません
過去 現在 未来の三世に出現する全ての仏は
般若波羅蜜多を拠り所として
この上ない 完全な 無上の悟りを得ているのです
いかなる世に出現する仏(ほとけ)も
仏が仏あるゆえん(由縁)は
ひとえに 般若波羅蜜多によるのです
故に 知るべきです
般若波羅蜜多とは
悟りへの階梯を明らかにした修行法であり
般若波羅蜜多の比類なき真言を誦える 瞑想法なのです
一切の苦を除き
確実に悟りに近づくための
全く偽りのない真言なのです
それでは、今から
般若波羅蜜多の真言を説きましょう
ガーテー ガーテー
ハーラー ガーテー
ハラソー ガーテー
ボージー ソワかー
母なる 般若波羅蜜多よ
どうか 私たちに 悟りをもたらし給え
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「般若波羅蜜多」(はんにゃはらみった)は、サンスクリット語の「प्रज्ञापारमिता」(Prajñāpāramitā)を音写したもので、日本仏教における重要な概念の一つです。
「三世」(さんぜ)は、仏教用語で、主に「現世」「来世」「前世」の三つの世界、あるいは時代を指します。
「常住不変」(じょうじゅうふへん)は、仏教用語であり、常に変わらず永遠に続くことを指します。
「形而上学」(けいじじょうがく)は、哲学の一分野であり、物事の本質や根源、存在の根源について研究する学問を指します。直訳すると「形(けい)を超えた(而上)学問(学)」となり、物質的な形や現象の背後にある本質や原理を探求する学問です。