00:00:03
片面に16ページずつ 両面合わせて32ページが印刷されています
00:00:10
この紙を4回半分に折ると
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ページ順に上下左右も揃った形で 一ページ大の紙が16枚重なります
00:00:19
背の部分を残して 三方を裁断したものが一折り
00:00:24
つまり 32ページで一折り
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約3千ページに及ぶ『大渡海』は
00:00:30
90以上の折りを重ね束ねて 一冊の本となる
00:00:35
皆さんの思いを形にするため
00:00:38
微力ながら 我々も全力を尽くします
00:00:46
暖かい
00:00:53
「明かり」…
00:00:55
「明かり」という言葉には「光」「灯」だけでなく
00:01:00
「証し」という意味もある
00:01:02
先生と我々の十数年に渡る言葉との格闘は無為ではなかった
00:01:10
これがまさに その証しだ
00:01:30
朝のおぼろげとした静寂 ペンの柄に映る窓越しの東雲
00:01:36
夜の色鮮やかな喧噪 猫のように街と街を往来
00:01:43
硬い思念 柔い思考 近い想い 遠い記憶
00:01:47
髪の毛の癖
00:01:49
狭い視野 広い交遊 長い沈黙 短い挨拶
00:01:54
声のトーン
00:01:56
互いに違う目の奥の光 条約にない友好の跡
00:02:02
永久の砂を攫う広い海で
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対義や類義の疎らな波に呑まれては沈んで
00:02:11
正面衝突 正反対も解いては結んで
00:02:17
論及論決 幾星霜に散らばる言葉を集めて拾うよ
00:02:23
潮風薫りゆく 浜辺に浮かべた繋がりは一つに
00:02:51
奥様に電話で 『大渡海』の刷り出しができましたとお伝えしたら
00:02:56
すぐに先生が電話口に出られたよ
00:02:59
お元気なんですね
00:03:02
ほんとにうれしそうで
00:03:03
一刻も早く見たいとおっしゃっていた
00:03:45
今 ちょっと横になってまして
00:03:48
すぐに呼んできますから
00:03:50
お休みでしたら ご無理なさらず
00:03:52
大丈夫ですよ
00:03:54
お二人を追い返したりしたら 後で叱られます
00:03:58
どうぞ
00:03:59
それでは
00:04:00
お邪魔いたします
00:04:06
どうも ご足労いただいて
00:04:09
ああ そのまま
00:04:10
皆さんにお茶を
00:04:12
はい
00:04:16
今日は 冬にしては暖かく感じます
00:04:22
先生 ご覧ください
00:04:26
この春には 予定通り刊行できる見通しです
00:04:30
待ち遠しいですね
00:04:33
しかし 辞書は完成してからが本番です
00:04:37
より精度と確度を上げるため 刊行後も用例採集に努め
00:04:42
改訂 改版に備えなければなりません
00:04:45
永遠に完成はない
00:04:50
心します
00:05:05
庭を見ませんか
00:05:11
どうです 馬締君
00:05:13
はい
00:05:15
枯れた草花も その種子を受け継がれ 新しく芽吹く
00:05:21
循環する命の営みほど 我々にとって励みになるものはありません
00:05:28
循環…
00:05:30
命の循環…
00:05:34
また日が出てきましたね
00:05:38
お土産を頂きましたよ
00:05:42
どうも 結構なものを
00:05:45
私はこの店の洋菓子が特に好きでしてね
00:05:49
玄武書房さんからの帰りは いつも食べきれないほど買ってきちゃって
00:06:00
時に 馬締君
00:06:02
はい
00:06:03
海外では 自国語の辞書を時の権力者が主導して編纂することが多い
00:06:11
なぜ公金を使って 辞書を編むのだと思いますか
00:06:17
自国語の辞書編纂は国家の威信をかけてなされるべき
00:06:23
という考えからでしょうか
00:06:25
その通り
00:06:26
翻って 日本では公的機関が主導して編んだ国語辞書は皆無です
00:06:34
『言海』も大槻文彦が生涯をかけて私的に編纂し 私費で刊行されました
00:06:43
私はそれを知った時
00:06:46
日本の官公庁の文化に対する感度の鈍さに憤ったものですが
00:06:52
しかし 今はこれでよかったのだと考えています
00:06:57
それはなぜでしょうか
00:07:00
公金が投入されれば 内容に口出しされる可能性もないとは言えないでしょう
00:07:07
権威付けと支配の道具として 言葉が位置付けられてはいけません
00:07:13
言葉は…
00:07:14
言葉を紡ぐ人の心は 自由であるべきです
00:07:20
たとえ資金に乏しくとも 国家ではなく
00:07:24
一人の人間である我々が日々を暮らす中で辞書を編纂する
00:07:29
そんな現状に誇りを持とう 今 あらためてそう思うのです
00:07:40
先生
00:07:41
大丈夫です
00:07:42
ちょっと機嫌がいいと お話が長くなるものですから
00:07:48
調子に乗って話しすぎましたね
00:07:52
先生 そろそろ我々はお暇します
00:07:55
どうか お休みになってください
00:07:59
実は 君たちにお伝えしなければならないことがあるんです
00:08:04
食道にガンがあることがわかりました
00:08:20
こんな…
00:08:21
こんなことってあるか
00:08:24
なあ 馬締
00:08:25
はい
00:08:27
俺たちは辞書を作り続ける
00:08:29
言葉の海を渡る一艘の舟を編み続ける
00:08:33
はい
00:08:34
そうやって 俺たちはいったいどこへ向かおうとしてるんだろうな
00:08:41
どこへ向かうのか
00:08:43
僕にはわかりません
00:08:47
辞書の編纂に関わるようになって
00:08:50
僕は暗闇で明かりを見出した思いでした
00:08:55
漸く自分が目指すべき方角がわかったと
00:08:59
でも
00:09:01
今でも時々 夢を見ます
00:09:05
暗い海で どちらへ進めばいいのかわからず
00:09:09
途方にくれている夢を
00:09:12
馬締
00:09:14
ですが 今 それは自分だけじゃないことを知っています
00:09:19
誰もが 自分の思いを伝えようと
00:09:24
喜んだり 傷付いたり
00:09:27
みんな 懸命に
00:09:31
僕たちにできるのは
00:09:33
夜の海を渡ろうとする人たちの道を照らし
00:09:37
たとえ小さな歩みでも立ち止まらず
00:09:40
いつか次の誰かにバトンを渡すこと
00:09:44
そう言ったら 悲しすぎるでしょうか
00:09:50
いや 悲しいとは思わん
00:09:53
あ痛っ
00:09:54
馬締の言う通りだ
00:09:56
お前にそれを思い出させてもらう日が来るとはな
00:10:00
よし やるか
00:10:03
はい
00:10:05
おしえて!
00:10:06
じしょたんず!!
00:10:08
僕の体が光ってる
00:10:11
これは
00:10:12
海くん ついに
00:10:15
時が来たのです
00:10:17
僕 どうなっちゃうの
00:10:18
誕生の時が来たのです
00:10:20
僕ら辞書の新しい仲間
00:10:23
そして よきライバル
00:10:25
『大渡海』
00:10:27
でも僕 みんなみたいに立派な辞書になれるかな
00:10:31
なれるとも
00:10:33
大勢の人たちの力が集まって 君は君だけの個性を備えた辞書になる
00:10:39
大勢の人の力が集まった…個性
00:10:46
みんなー
00:10:49
より多くの人に辞書が届きますように
00:10:57
じゃあ 行こうか
00:11:06
オッケー
00:11:07
ありがとう
00:11:15
見て ほら
00:11:16
蕾ですね
00:11:18
ねえ みっちゃんの仕事が一段落した頃 お花見に行こうか
00:11:24
お茶とサンドイッチ持ってね
00:11:26
歩いて 疲れたら一休みして また歩いて
00:11:30
ゆっくり ゆっくり見て歩こう
00:11:34
いいですね
00:11:44
パパ 抱っこ
00:11:49
早く 早く
00:11:51
さあ 姫君たち 今日も出かけますか
00:11:56
ここにもお姫様がいるんだけどな
00:11:57
{\an8}そーれ
00:11:59
ママはお妃様でしょ
00:12:01
抱っこしてもらうのはお姫様だけなんだよ
00:12:05
恐れながら この上 妃まで抱きかかえては
00:12:08
王の体がペシャンコになってしまいます
00:12:14
それってどういう意味よ
00:12:16
いかん 急いで出発だ
00:12:22
どうも ご連絡ありがとうございました
00:12:25
はい
00:12:26
おはようございます
00:12:28
承りました
00:12:30
おはようございます
00:12:30
{\an8}はい お疲れ様です
00:12:31
おはよう
00:12:32
おはようございます
00:12:33
{\an8}それでは 失礼します
00:12:36
印刷所から最後の刷り出しが終わりましたって
00:12:39
もうすぐ なんですね
00:12:42
俺はもう感無量で
00:12:44
『大渡海』ができ上がったら 私 泣いちゃうかな
00:12:49
佐々木さんが泣くところ想像できないが
00:12:52
あら ひどい
00:12:53
そうですよ 今のは荒木さんが悪いです
00:12:56
{\an8}す…すまん 確かに
00:12:59
{\an8}でも 楽しみね
00:13:00
{\an8}私もです
00:13:00
はい 玄武書房辞書編集部
00:13:01
{\an8}俺だって
00:13:05
先日はどうも ありがとうございました
00:13:27
先ほど
00:13:29
松本先生が…
00:13:32
松本先生が…
00:13:36
亡くなられたそうです
00:13:45
副部長
00:13:46
そろそろ定例会議です
00:13:49
副部長?
00:13:50
西岡さん
00:13:54
この春に発売される新時代を象徴する辞書『大渡海』
00:13:59
ここで最終盛り上げを前に
00:14:02
あらためてそれぞれの分担を確認しようと思います
00:14:06
その前に
00:14:09
皆さんには信用していただけないかもしれませんが
00:14:13
こう見えて 私 辞書編纂に関わっていた時期がございました
00:14:18
その時 学んだことがあります
00:14:22
辞書とは 人と人とが理解し合い
00:14:25
よりよい社会を形成していくための一助となるものであると
00:14:30
『大渡海』は現代 そしてこれから未来を担う人々にとって
00:14:35
道標となるようにという願いと情熱から生まれました
00:14:40
今 この新しい辞書を一人でも多くの読者に届ける役割の一端を担えること
00:14:48
私は心から誇りに思っています
00:15:00
みっちゃん ご飯
00:15:18
まだ夜は冷えるね
00:15:40
間に合わなかったよ
00:16:03
馬締主任
00:16:05
『大渡海』刊行 おめでとうございます
00:16:08
お疲れ様 馬締さん
00:16:11
皆さん お疲れ様でした
00:16:13
私 まだ全然実感が湧かなくて
00:16:17
こんな時 なんて言えばいいのか
00:16:19
私だってそうよ
00:16:22
佐々木さんも
00:16:23
荒木さんもですか
00:16:25
それ 僕もです
00:16:29
みんなでお祝いしましょう 松本先生のためにも
00:16:33
「月の裏」のお座敷 予約済みです
00:16:35
西岡君も呼んでありますから
00:16:37
西岡か
00:16:39
あの宣伝マスコット あいつじゃなきゃ思いつかんよな
00:16:43
可愛いですよね
00:16:45
書店さんでも人気みたいですよ
00:16:47
じゃ たまには労を労ってやるか
00:16:50
じゃ 向かいましょうか
00:16:51
はい
00:16:51
{\an8}行きましょう
00:16:54
あの 僕 ちょっとこの辺整理していきますので
00:16:59
整理なら私が…
00:17:01
気持ちの整理ってやつでしょ
00:17:04
すみません すぐ追いかけます
00:17:24
西岡さん
00:17:25
『大渡海』の後書きに俺の名前が載ってるじゃないか
00:17:30
はい
00:17:32
まさか お名前に誤植でもありましたか
00:17:35
そうじゃない
00:17:37
俺なんかほとんど何も…
00:17:43
ほんとに お前って奴は
00:17:46
覚えてるか 俺ら二人で「西行」の項目について話し合った時のこと
00:17:52
覚えています
00:17:54
あの時 松本先生 言ってたな
00:17:57
俺たちは互いに支え合い 補う者同士だって
00:18:01
はい
00:18:02
あの言葉 今の方がわかる気がするよ
00:18:07
俺たちだけじゃない
00:18:08
人ってのは支え合ったり 補い合ったりしないと 海を渡れない
00:18:14
そう思います
00:18:16
そして…
00:18:17
その一助となるべく『大渡海』はある
00:18:24
お疲れ 完成おめでとう
00:18:27
西岡さんも
00:18:29
だけど これで終わったと思うなよ
00:18:32
俺の仕事はこれからが本番だ
00:18:35
わかっています
00:18:36
僕たちの仕事に終わりなんて永遠にありません
00:18:40
永遠? そりゃ勘弁してくれよ
00:18:44
どうしてですか
00:18:45
お前 松本先生に似てきたよな
00:18:49
西岡さんこそ
00:18:51
俺が
00:18:51
馬鹿 そんな…
00:18:53
そうか
00:18:56
行きましょうか 皆さんが待っています
00:18:59
そうだな ビシッと行くか
00:19:35
ねえ 今日はまぁるい月が見えるよ
00:19:46
眠るあなたにそっと話しかける
00:19:57
仕草が 姿勢が その生き方が
00:20:08
どんな言葉よりも 好きにさせるの
00:20:15
だからあなたはそのままでいい
00:20:21
I&I You&I 感じていて
00:20:27
Here with you ずっとここにいるよ
00:20:32
出逢えた日 あの日からもう
00:20:40
あなたが好きよ
00:20:50
最後の最後に責任を果たせなかったことを辞書編集部の皆さんにお詫びします
00:20:58
『大渡海』完成の暁には 私はもうこの世にはいないでしょう
00:21:04
しかし今は 不安も後悔もありません
00:21:09
『大渡海』が言葉という宝をたたえた大海原を行く姿が
00:21:15
まざまざと見えるからです
00:21:18
荒木くん 一つだけ訂正します
00:21:21
私は以前「君のような編集者には二度と出会えない」と言いましたが
00:21:27
あれは間違いでした
00:21:29
君が連れてきてくれた馬締くんのお陰で
00:21:33
私は再び辞書の道に邁進することが出来たのです
00:21:38
君と馬締くんのような編集者に出会えて 本当によかった
00:21:44
あなたたちのお陰で 私の生はこの上なく充実したものになりました
00:21:51
感謝という言葉以上の言葉がないか
00:21:54
あの世があるなら あの世で用例採集するつもりです
00:22:00
『大渡海』編纂の日々は なんと楽しいものだったでしょう
00:22:06
皆さんの 『大渡海』の 末永く幸せな航海を祈ります
00:22:18
時々思う
00:22:21
僕らは旅人なのだと
00:22:24
そして辞書は 僕ら旅人の行く先を照らす灯だ
00:22:31
人が旅を続ける限り それは受け継がれ 繰り返し書き換えられて
00:22:38
旅人の行く先を照らすだろう
00:22:42
そう信じて
00:22:45
僕らは繰り返し 舟を編む