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読んでください
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今恋文を読んで ひょっとして返事をしに
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トラさん
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一緒に待ってくれるんですか
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朝のおぼろげとした静寂 ペンの柄に映る窓越しの東雲
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夜の色鮮やかな喧噪 猫のように街と街を往来
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硬い思念 柔い思考 近い想い 遠い記憶
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髪の毛の癖
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狭い視野 広い交遊 長い沈黙 短い挨拶
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声のトーン
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互いに違う目の奥の光 条約にない友好の跡
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永久の砂を攫う広い海で
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対義や類義の疎らな波に呑まれては沈んで
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正面衝突 正反対も解いては結んで
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論及論決 幾星霜に散らばる言葉を集めて拾うよ
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潮風薫りゆく 浜辺に浮かべた繋がりは一つに
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あの
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いっ いってまいります
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みっちゃん
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つまりだ
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返事を待つ緊張感に耐え切れず部屋を飛び出したところ
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香具矢ちゃんとばったり会って またまた耐え切れずに逃げ出して
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朝の六時からここで仕事をしていたと
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用例採集カードを見ていると 心が落ち着きます
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落ち着いてる場合じゃないだろ
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もう駄目です
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返事をしに来てくれたのかもしれないのに 逃げてしまうなんて
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僕は本当に愚か者です
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いえ 痴れ者 滑稽者 トンチキ 魯鈍漢
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なんでもいいだろ
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まあ 確かにもう駄目かもしれないな
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でも まだそうと決まったわけじゃない
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そうでしょうか
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反省してんなら 帰ったらすぐ返事を聞きに行け
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これ以上時間をかけるな
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絶対今日中にけじめをつけろよ
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いいな 逃げるなよ
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明日どうなったか確認するからな
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あんた 昨日どこ行ってたんだい
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一日中顔見せなかったけど どこかにいい子でもできたのかい
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いってらっしゃい
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いってきます
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そういえば みっちゃん 今日は随分早く出掛けたみたいだね
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おばあちゃんが起きるずっと前に
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そう
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なに
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香具矢 昨日の夜は
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あの調子だと 特に進展はなかったみたいだね
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まったく 何やってんだか
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どうかしたの
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何でもないよ
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郵便でーす
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ご苦労様
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今日は冷えますね
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寒くなったねぇ
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明日はもっと冷えるみたいですよ
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そうかい
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どこかで『大渡海』の作業を一旦止めて
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『玄武学習国語辞典』に専念する期間を作りましょう
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いくらなんでも無理です そんな短期間で
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大きな辞書を新たに編纂する時は様々な蹉跌があるものです
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しかし 如何せん人手が足りません
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まったく これじゃ『大渡海』の完成に何年かかることやら
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会社は本当に辞書を作る気があるのでしょうか
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人員の補充もなしに この上さらに改訂だなんて
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私たちが音を上げるのを待っているみたい
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大部の辞書を一人で完成させた先人もいます
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たいぶの辞書?
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巻数やページ数の多い辞書ってことだ
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ほんとに言葉を知らん奴だな いったい何年辞書…
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すいません
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で その辞書って
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『言海』
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げんかい?
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ああ 言葉の海
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大槻文彦という人が明治時代に編纂した日本で初めての近代的な国語辞典です
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大槻文彦は持てる時間のすべてをかけ 私財を投じ
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この辞書を完成させたんです
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なんでそこまで
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「業」というものかもしれませんね
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理性ではどうにもならない心の動き
00:08:05
「業」はまた「わざ」とも読みます
00:08:09
なりわいや仕事という意味もありますね
00:08:13
「天命」とも言えるかもしれません
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どうにもならない思いに駆られ 仕事をする
00:08:22
私たちも同じはずです
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はい
00:08:31
しかし 大槻文彦は一人だったが 少なくとも俺たちは一人じゃない
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まあ 諦めずに方法を考えていこう
00:08:40
はい
00:08:41
そうですね
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いや なんつーか
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どうした 西岡
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すいません 非常に言いにくいんですけど
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俺 春には宣伝部に異動になるみたいで
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なっ
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どういうことだ
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それも『大渡海』の作業を続ける条件の一つなんすよ
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なぜ早く言わん
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いや 俺も昨日言われたばっかりで
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ほら 気持ちの整理とか色々あるでしょう
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まったく
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で 大丈夫なのか
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まあ それなりに
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困りましたね
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馬締さんと西岡さん 二人がいれば安心だと思っていたのですが
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これからは実務は馬締 交渉事は西岡の両輪で進めてもらえたらと
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俺と先生で話してたんだよ
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これじゃあ 初めから考え直しですね
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ええ
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先生 荒木さん すみません
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いや お前が謝ることじゃないさ
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くそ これ以上辞書編集部には人件費を回せないってことか
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でもそれじゃ 正社員は馬締さん一人になるってことですか
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そんなのって
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西岡さんが異動
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西岡さんがいなくなったら 会社との折衝も 編集作業をまとめるのも
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全部 僕一人で
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おしえて!
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じしょたんず!!
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大変大変
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どうしたの みんな慌てて
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言海さんが 言海さんが来るのです
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大槻文彦がたった一人で作り
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千回も増刷されたというあの伝説の辞書
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夏目漱石 芥川龍之介も使ったというあの
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昔の詩人がページを食べたというあの
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人間って辞書食べちゃうの
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あの言海さんが 言海さんが今日ここに
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来た
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言海さんだー
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そういえばこの間 リンドウが咲いてるの見たの
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なんか悪いな こんなことんなっちまって
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いえ 西岡さんの 西岡さんのおかげで
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西岡さんが『大渡海』を守って なのに
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異動になるギリギリまで 俺にできることは全部やっていくからな
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僕に西岡さんみたいに外回りをしたり 原稿を取り立てたりなんて
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できるんだろうか
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みっちゃーん お湯ピーって
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お湯ピーって
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みっちゃん みっちゃーん
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「料理人」
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「料理ヲ業トスル者 厨人」
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厨人…
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最近ではほとんど使われることのない言葉だ
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言葉は生き物であり 時代とともに変化し 中には消えていくものもある
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そういう意味では
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『言海』は今現在実用に耐えうる辞書とは言えないかもしれない
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でも
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その中に込められた思いは…
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「業」はまた「わざ」とも読みます
00:16:05
なりわいや仕事という意味もありますね
00:16:09
「天命」とも言えるかもしれません
00:16:12
どうにもならない心に駆られ 仕事をする
00:16:16
私たちも同じはずです
00:16:18
そうだ
00:16:20
僕も松本先生も荒木さんも
00:16:24
みんな 「業」としか言いようのないものに突き動かされている
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きっと 香具矢さんも
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作ろう 辞書を
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『大渡海』を
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けじめをつけないと
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ただいま
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香具矢さん
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お返事を頂きたいんです
00:17:18
返事?
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もちろん駄目なら遠慮なく そう言ってください
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覚悟はできています
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ちょっ ちょっと待って
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それってもしかして昨日もらった手紙のこと
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はい
00:17:30
こっ ここここ
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恋文の話です
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ごめん
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ふられた ということですね
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トラさん トラさん
00:18:20
トラさん
00:18:23
トラさん
00:18:32
今日は来てくれないんですね
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来たよ
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香具矢…さん
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あっ あの どうして
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こんなに丁寧で心のこもった手紙をもらって 来ないわけにはいかないでしょ
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昨日手紙をもらった時 ひょっとしてラブレターじゃないかって思ったんだ
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でも読んでみたら なんだか文章が難しくって
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そうだって確信が持てなかった
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一晩悩んだんだよ
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どうしてもわからなくって 思い切って聞きに行こうとしたら
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みっちゃん逃げちゃうし
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す すみません
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さっき 恋文ってはっきり言われて
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もう一度ちゃんと読んで自分でしっかり確認したくて
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だから慌てて部屋に戻ったの
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それで
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うん
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好きです
00:20:16
うん
00:20:20
いやあの 「うん」とは
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遊園地で一緒に観覧車に乗ったでしょ
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あの時 私…
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みっちゃん 二周目行っちゃってびっくりした
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面目ない
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私も 好きです
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ねえ 今日はまぁるい月が見えるよ
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眠るあなたにそっと話しかける
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仕草が 姿勢が その生き方が
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どんな言葉よりも 好きにさせるの
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だからあなたはそのままでいい
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I&I You&I 感じていて
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Here with you ずっとここにいるよ
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出逢えた日 あの日からもう
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あなたが好きよ
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業
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誰もが生まれながらに背負っているもの
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重っ
00:22:39
西岡君は背負ってなさそうね
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そういう佐々木さんの業って何なんすか
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聞きたい
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すいませんした
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あら 残念