00:00:03
茫漠とした言葉の海
00:00:13
海を渡る術を持たない僕たちは そこでただ 佇む
00:00:20
誰かに届けたい思いを 言葉を 胸の奥底にしまったまま
00:00:29
辞書とは その海を渡る一艘の舟だ
00:00:51
朝のおぼろげとした静寂 ペンの柄に映る窓越しの東雲
00:00:57
夜の色鮮やかな喧噪 猫のように街と街を往来
00:01:04
硬い思念 柔い思考 近い想い 遠い記憶
00:01:09
髪の毛の癖
00:01:10
狭い視野 広い交遊 長い沈黙 短い挨拶
00:01:15
声のトーン
00:01:17
互いに違う目の奥の光 条約にない友好の跡
00:01:23
永久の砂を攫う広い海で
00:01:30
対義や類義の疎らな波に呑まれては沈んで
00:01:32
正面衝突 正反対も解いては結んで
00:01:38
論及論決 幾星霜に散らばる言葉を集めて拾うよ
00:01:44
潮風薫りゆく 浜辺に浮かべた繋がりは一つに
00:02:14
松本先生が最初に手にした辞書は何ですか
00:02:18
祖父の遺品として譲り受けた大槻文彦の『言海』ですね
00:02:23
多大な困難を乗り越え 大槻が一人で編纂した辞書だと知り
00:02:28
子供心に大いに感銘を受けたものです
00:02:32
感銘を受けつつ ちょっと色っぽい言葉を引いてみたりもしたでしょう
00:02:37
しませんよ そんなこと
00:02:39
そうですか
00:02:41
私は中学の頃の『岩波国語辞典』が最初でしたが
00:02:45
しもがかった言葉を引きまくりましたよ
00:02:48
しかし あれは極めて端正で上品な辞書だ
00:02:51
さぞかしがっかりしたことでしょうね
00:02:54
そうそう そうなんですよね
00:02:56
って先生も引いてみたんじゃないですか
00:03:02
荒木君とは随分たくさんの辞書を一緒に作りました
00:03:07
どれも思い出深い
00:03:13
最後までお手伝いすることができず ほんとに申し訳ないです
00:03:20
やはり編集部に残ることはできませんか
00:03:23
できるだけ顔を出すつもりではいますが
00:03:27
女房の具合がどうも芳しくないんです
00:03:30
これまで辞書漬けで何にもしてやれませんでしたから
00:03:33
せめて定年後は傍についていてやりたく…
00:03:37
それがいいでしょう 今度は荒木君が奥さんを支えてさしあげる番だ
00:03:48
定年までに何としても 私の後継となる社員を探します
00:03:52
先生を万全の態勢でお助けし 辞書編集部を統率し
00:03:57
私たち二人で立てた新しい辞書の企画を推進していける若く有能な人材を
00:04:06
君のような編集者とは もう巡り合えないでしょう
00:04:11
辞書の編集作業は単行本や雑誌とは違う 大変特殊な世界です
00:04:18
気長で細かい作業を厭わず
00:04:20
言葉に耽溺し しかし溺れきらず
00:04:23
広い視野をも併せ持つ
00:04:26
そういう若者が今の時代に果たして…
00:04:32
必ずいるはずです
00:04:34
私が何としても 見つけ出します
00:04:50
佐々木さん 西岡は
00:04:52
まだ帰っていませんよ
00:04:54
まったくあいつは フラフラほっつき歩きおって
00:04:57
佐々木さん 頼みがあるんですが
00:05:00
はい
00:05:01
辞書編集に向いた人間に心当たりがあれば
00:05:04
どの部署の誰でもいい 俺に教えてくれませんか
00:05:10
『大渡海』を作るため 絶対に必要なんです
00:05:37
玄武書房から参りました 馬締光也と申します
00:05:42
この度は弊社の新刊を置いていただきまして ありがとうございます
00:05:47
つきましては 本日販売促進用のチラシをお持ちしましたので
00:05:52
ここレジなので そっちに回ってもらえます
00:05:56
はい
00:05:59
あの これ ご活用いただけますと幸いです
00:06:02
はいはい ご苦労様です
00:06:05
頂きましたんで もう はい
00:06:08
またよろしくお願いします
00:06:10
はいはい それじゃ
00:06:12
では 失礼します
00:06:15
いらっしゃいませ こちら680円になります
00:06:19
あの 今の人 何書房って言ってましたっけ
00:06:24
玄武書房さんですよ 大声で驚かせてすみませんね
00:06:28
こちらこそすみません
00:06:30
うちの営業が大変な失礼をいたしまして 誠に申し訳ありませんでした
00:06:35
この俺 いえ 私がビシッと言い聞かせておきますんで
00:06:39
今後とも玄武書房を何卒 何卒よろしくお願いいたします
00:06:45
どうも ご丁寧に
00:06:50
おいおい うちの営業部にあんな奴いたのかよ
00:06:53
って もういねぇし
00:06:56
待て 待てよ営業
00:07:03
そう お前
00:07:08
辞書編集部の方ですか
00:07:11
同じ玄武書房の方と気付かず す…すみませんでした
00:07:15
違ぇって そんなこと言ってんじゃなくってさ
00:07:19
書店の営業回りに そんなライバル書店の袋ぶら下げてったら
00:07:23
店員さんもあきれるっつーの
00:07:26
色が落ち着いていて 綺麗だなと思いまして…
00:07:29
そういうんじゃねぇだろ
00:07:32
うちの商品をお預けするそれぞれの書店さんに
00:07:35
気持ちよく売っていただけるよう 常に相手の立場になって考える これな
00:07:41
これが営業の心構えだろうが
00:07:44
わかってんの お前
00:07:46
えーっと 馬締光也?
00:07:49
はい 馬締です
00:07:51
馬締なぁ
00:07:53
真面目っつーか天然なのも結構だけど
00:07:56
要するにもう少し空気読めってこと
00:07:59
「空気」…
00:08:01
なんだよ
00:08:03
「読む」ということは 西岡さんのおっしゃる空気は呼吸するものではなく
00:08:09
場の状況 雰囲気を表す際に用いる「空気」 ですね
00:08:17
「空気が重い」という使い方もありますね
00:08:21
居心地が悪い その場を立ち去りたいような思いに駆られること
00:08:26
俺 ちょうどそんな気分になってきたよ
00:08:30
まっ 頑張れよな
00:08:34
あの
00:08:37
ご教示ありがとうございました
00:08:41
いや
00:09:02
ただいま帰りました
00:09:35
トラさん
00:09:39
夕飯を作らなきゃな
00:09:43
トラさん 煮干しでいいかな
00:09:55
みっちゃん 帰ってたのかい
00:10:00
はい 先ほど帰りました
00:10:02
煮物を作りすぎちゃったんだよ よかったら みっちゃん食べてって
00:10:08
ありがとうございます ではご相伴にあずかります
00:10:14
いただきます
00:10:18
こういうのもあるよ
00:10:21
いい匂いですね
00:10:23
肉の井の坂 自慢の新商品なんだって
00:10:27
今週はお試しサービスで安くするって言うから 二人分買ってきたんだよ
00:10:32
なるほど 今までと香りが少し違いますね
00:10:37
井の坂のじっちゃんね 後継ぎ息子に
00:10:41
「今のままじゃ駄目だ 新しい商品を考えよう」
00:10:45
なんて言われたとかで 張り切ってるんだって
00:10:50
「今のままじゃ」…
00:10:55
ああそういやさ 最近また本がひと山ばかし増えたじゃない
00:11:00
すみません お邪魔でしたか
00:11:02
廊下には はみ出さないように整理したつもりでしたが
00:11:08
気にしなさんな 廊下からちらっと見えただけ
00:11:12
早雲荘の床はやわじゃないから まだまだ積んでも大丈夫
00:11:18
だいたい本好きのみっちゃんが本を買ってこなくなったら
00:11:23
私ゃ よっぽど心配さ
00:11:27
安心しました
00:11:56
言葉
00:11:58
まるで海のように広がる言葉
00:12:01
思いを誰にも届けられず どちらに向かえばいいかもわからぬまま
00:12:06
僕は海に沈む
00:12:09
海に呑まれていく
00:12:13
誰か 手を差し伸べて
00:12:16
行く先を照らして
00:12:37
おしえて!
00:12:38
じしょたんず!!
00:12:40
やあ 僕 辞書
00:12:41
私は辞書である
00:12:42
俺 辞書です
00:12:43
僕 辞書
00:12:44
ってゆうか 同じ辞書なのに どうしてみんな名前も内容も違うんだろう
00:12:49
辞書というものは編纂された時代 背景 方針などによって
00:12:53
それぞれの個性があるのです
00:12:56
俺は威厳を持ちつつ 新しい言葉にも柔軟だなあ
00:13:01
僕はナウい いや 今きてる言葉を多く収録してるのが自慢だね
00:13:07
君は
00:13:07
えっ えーっと 僕は…僕は
00:13:11
君は君の個性をこれから見つければいい
00:13:15
僕の…個性
00:13:18
辞書にはそれぞれ個性がある!
00:13:23
おい また来てる
00:13:25
誰よ
00:13:26
辞書編集部の荒木さん
00:13:29
辞書?
00:13:30
人材を探してんだってよ
00:13:31
マジ
00:13:33
やべっ 目合わせないようにしないと
00:13:36
必ずいる
00:14:17
気長で細かい作業を厭わず
00:14:20
言葉に耽溺し しかし溺れきらず
00:14:23
広い視野をも併せ持つ
00:14:27
そんな奴がいるはずだ 必ず
00:14:37
荒木さん
00:14:40
昼飯 抜きなんじゃないですか
00:14:42
昼飯なんか食ってられるか
00:14:44
まったくお前は 呑気で羨ましいよ
00:14:46
ひどいなあ
00:14:48
俺だって探しましたよ
00:14:50
ねえ 佐々木さん
00:14:52
でもね 辞書作りに向いた人材なんて そう簡単に見つかりませんって
00:14:57
情けない 会社は辞書というものを蔑ろにしとる
00:15:02
仕方ありませんよ
00:15:03
辞書作りには莫大な金と膨大な時間がかかりますからね
00:15:08
「莫大」…
00:15:09
ずっと景気悪いですしね
00:15:11
どこもすぐ売れるものしか作ろうとしませんよ
00:15:14
辞書はイメージもいいし 景気に左右されにくい商品だ
00:15:19
こんな時だからこそ
00:15:20
志を高く持ち 未来を見据えようって気概はないのか
00:15:24
辞書はもう何冊もありますしね
00:15:27
お前な
00:15:28
辞書編集部員のくせに 辞書はどれも同じだと思ってるんじゃないだろうな
00:15:33
いや 俺だって…
00:15:34
語釈 収録語の傾向など 辞書にはそれぞれ個性がある
00:15:39
一つとして同じ辞書はないんだ
00:15:42
これからの未来にふさわしい新しい辞書を 松本先生と共に我々が作るんだ
00:15:48
俺だってわかってますよ
00:15:50
だけど 俺みたいに優秀な奴なんて うちにはなかなかいませんって
00:15:56
昨日だって 外で営業部の人間とばったり会いましてね これが…
00:16:01
どうせ売り上げばっかり考えてる奴なんだろう
00:16:04
いや それが全然営業に向いてない奴で
00:16:08
俺 説教してやったんですけどね
00:16:12
「空気」
00:16:13
「読む」ということは 呼吸するものではなく
00:16:18
場の状況 雰囲気を表す際に使われる「空気」ですね
00:16:26
あと何だったっけな
00:16:28
居心地が悪いとか その場を立ち去りたいと思うこととか何とか
00:16:34
その場ですぐにそう言ったのか そいつが
00:16:38
そんな営業いるんだ
00:16:40
妙に親近感あるわね
00:16:43
佐々木さんだって 会ったら引きますよ
00:16:45
何しろこう 空気読めない奴だったんすから
00:16:49
会おう
00:16:50
営業部の何て奴だ
00:16:52
ああじれったい お前もついてこい
00:16:56
ちょっと 待ってくださいよ 荒木さん
00:17:00
一つの言葉が持つ多様な意味を瞬時に思い浮かべる
00:17:04
それは辞書を作るために重要な素質だ
00:17:09
会ったって無駄ですよ
00:17:11
ほんと天然でくそ真面目な
00:17:14
あっ こいつだ
00:17:18
第一営業部 馬締
00:17:21
行くぞ
00:17:45
辞書の編集作業は単行本や雑誌とは違う 大変特殊な世界です
00:18:22
気長で細かい作業を厭わず
00:18:26
言葉に耽溺し しかし溺れきらず
00:18:30
広い視野をも併せ持つ
00:18:35
そういう若者が今の時代に果たして…
00:18:51
辞書編集部の荒木だ
00:18:56
第一営業部の馬締です
00:18:58
馬締とは珍しい名字だな
00:19:01
どこの出身だ
00:19:02
僕は東京ですが 両親の出身は和歌山です
00:19:07
問屋場のことを馬締とも言ったそうで
00:19:10
旅人に馬の手配をする馬の元締めということか
00:19:16
話の途中ですまんな
00:19:18
いえ 名字の由来を聞かれたことは何度もありますが
00:19:22
書き留められるのは初めてです
00:19:26
君は「右」を説明しろと言われたら どうする
00:19:31
「右」…
00:19:32
方向としての「右」ですか それとも思想としての
00:19:37
方向の「右」だ
00:19:45
「箸を使う方」と言うと 左利きの人を無視することになりますし
00:19:51
「心臓のない方」と言っても 心臓が右にある人もいるそうですから
00:19:58
体を北へ向けた時 東に当たる方角
00:20:04
では「島」はどう表す
00:20:07
ストライプ アイランド 地名の「志摩」
00:20:10
アイランドの「島」だ
00:20:12
周りを水に囲まれた比較的小さな陸地 でしょうか
00:20:17
いや それじゃ足りない
00:20:20
江の島は一部が陸と繋がっていながら島だ となると…
00:20:24
もういい 十分だ
00:20:28
馬締君 君の力を『大渡海』に
00:20:32
新しい辞書作りに注いでほしい
00:20:35
冗談でしょ
00:20:40
辞書?
00:20:47
言葉の海を前に佇む人の
00:20:50
心を 思いを運ぶために
00:20:54
僕たちは舟を編む
00:20:59
言葉の海を渡る『大渡海』という舟を
00:21:16
ねえ 今日はまぁるい月が見えるよ
00:21:27
眠るあなたにそっと話しかける
00:21:38
仕草が 姿勢が その生き方が
00:21:49
どんな言葉よりも 好きにさせるの
00:21:56
だからあなたはそのままでいい
00:22:02
I&I You&I 感じていて
00:22:08
Here with you ずっとここにいるよ
00:22:13
出逢えた日 あの日からもう
00:22:21
あなたが好きよ
00:22:35
セリフは完璧に覚えてきたぞ
00:22:37
落ち着け 落ち着け
00:22:39
おつつけ
00:22:40
かんだ
00:22:47
覚えてきたセリフまで真っ白に