皆口をそろえて小鳥がかわいそうだと言いながら、泣きじゃくってその辺の花の茎を引きちぎって殺している。
「綺麗なお花。
きっと小鳥さんも喜ぶよ」などと言っている光景が頭がおかしいように見えた。
小鳥は、「立ち入り禁止」と書かれた柵の中に穴を掘って埋められ、誰かがゴミ箱から拾ってきたアイスの棒が土の上に刺されて、花の死体が大量に供えられた。
「ほら、ね、恵子、悲しいね、かわいそうだね」と母は何度も私に言い聞かせるように囁いたが、私は少しもそうは思わなかった。
こういうことが何度もあった。
小学校に入ったばかりの時、体育の時間、男子が取っ組み合いのけんかをして騒ぎになったことがあった。
「誰か先生呼んできて!」
「誰か止めて!」
悲鳴があがり、そうか、止めるのか、と思った私は、そばにあった用具入れをあけ、中にあったスコップを取り出して暴れる男子のところに走って行き、その頭を殴った。
周囲は絶叫に包まれ、男子は頭を押さえてその場にすっ転んだ。
頭を押さえたまま動きが止まったのを見て、もう一人の男子の活動も止めようと思い、そちらにもスコップを振り上げると、 「恵子ちゃん、やめて!やめて!」
と女の子たちが泣きながら叫んだ。
走ってきて、惨状を見た先生たちは仰天し、私に説明を求めた。
「止めろと言われたから、一番早そうな方法で止めました」
先生は戸惑った様子で、暴力は駄目だとしどろもどろになった。
「でも、止めろって皆が言ってたんです。
私はああすれば山崎くんと青木くんの動きが止まると思っただけです」
先生が何を怒っているのかわからなかった私はそう丁寧に説明し、職員会議になって母が呼ばれた。
なぜだか深刻な表情で、「すみません、すみません……」と先生に頭を下げている母を見て、自分のしたことはどうやらいけないことだったらしいと思ったが、それが何故なのかは、理解できなかった。
教室で女の先生がヒステリーを起こして教卓を出席簿で激しく叩きながらわめき散らし、皆が泣き始めたときもそうだった。
「先生、ごめんなさい!」
「やめて、先生!」
皆が悲壮な様子で止めてと言っても収まらないので、黙ってもらおうと思って先生に走り寄ってスカートとパンツを勢いよく下ろした。
若い女の先生は仰天して泣きだして、静かになった。
隣のクラスの先生が走ってきて、事情を聞かれ、大人の女の人が服を脱がされて静かになっているのをテレビの映画で見たことがある、と説明すると、やっぱり職員会議になった。
「なんで、恵子にはわからないんだろうね……」
学校に呼び出された母が、帰り道、心細そうに呟いて、私を抱きしめた。
自分はまた何か悪いことをしてしまったらしいが、どうしてなのかは、わからなかった。
父も母も、困惑してはいたものの、私を可愛がってくれた。
父と母が悲しんだり、いろんな人に謝ったりしなくてはいけないのは本意ではないので、私は家の外では極力口を利かないことにした。
皆の真似をするか、誰かの指示に従うか、どちらかにして、自ら動くのは一切やめた。
必要なこと以外の言葉は喋らず、自分から行動しないようになった私を見て、大人はほっとしたようだった。
高学年になるにしたがって、あまりに静かなので、それはそれで問題になるようになった。
でも、私にとっては黙ることが最善の方法で、生きていくための一番合理的な処世術だった。
通知表に「もっとお友達を作って元気に外で遊ぼう!」
と書かれても私は徹底して、必要事項以外のことを口にすることはなかった。
二つ年下の妹は、私と違って、「普通」の子どもだった。
かといって私を敬遠するわけでもなく、むしろ慕ってくれていた。
妹が私と異なり普通のことで母に叱られているとき、母に私は近づいて「どうして怒っているの?」
と理由を尋ねた。
私が母に質問したせいでお説教が終わると、庇われたと思うのか、妹はいつも私に「ありがとう」と言った。
お菓子や玩具にあまり興味がなかった私は、それらを妹にあげることも多かった。
そのため、妹はいつも私についてまわっていた。
家族は私を大切に、愛してくれていて、だからこそ、いつも私のことを心配していた。
「どうすれば『治る』のかしらね」
母と父が相談しているのを聞き、自分は何かを修正しなければならないのだなあ、と思ったのを覚えている。
父の車で遠くの街までカウンセリングに連れて行かれたこともある。
真っ先に家に問題があるのではないかと疑われたが、銀行員の父は穏やかで真面目な人で、母は少し気弱だが優しく、妹も姉である私によく懐いていた。
「とにかく、愛情を注いで、ゆっくり見守りましょう」と毒にも薬にもならないことを言われ、両親はそれでも懸命に私を大切に愛して育てた。
学校で友達はできなかったが、特に苛められるわけでもなく、私はなんとか、余計なことを口にしないことに成功したまま、小学校、中学校と成長していった。
高校を卒業して大学生になっても、私は変わらなかった。
基本的に休み時間は一人で過ごし、プライベートな会話はほとんどしなかった。
小学校のころのようなトラブルは起きなかったが、そのままでは社会に出られないと、母も父も心配した。
私は「治らなくては」と思いながら、どんどん大人になっていった。
スマイルマート日色町駅前店がオープンしたのは、1998年5月1日、私が大学一年生のときだった。
オープンする前、自分がこの店を見つけたときのことは、よく覚えている。
大学に入ったばかりの頃、学校の行事で能を観に行き、友達がいなかった私は一人で帰るうちに道を間違えたらしく、いつの間にか見覚えのないオフィス街に迷い込んだのだった。
ふと気が付くと、人の気配がどこにもなかった。
白くて綺麗なビルだらけの街は、画用紙で作った模型のような偽物じみた光景だった。
まるでゴーストタウンのような、ビルだけの世界。
日曜の昼間、街には私以外誰の気配もなかった。
異世界に紛れ込んでしまったような感覚に襲われ、私は早足で地下鉄の駅を探して歩いた。
やっと地下鉄の標識を見つけてほっと走り寄った先で、真っ白なオフィスビルの一階が透明の水槽のようになっているのを発見した。
「スマイルマート日色町駅前店OPEN!
オープニングスタッフ募集!」
というポスターが透明のガラスに貼られているほかは、看板も何もなかった。
ガラスの中をそっと覗くと、人も誰もおらず、工事の途中なのか、壁のあちこちにはビニールが貼りつけられていて、何も載っていない白い棚だけが並んでいた。
このがらんどうの場所がコンビニエンスストアになるとは私には到底信じられなかった。
家からの仕送りは十分にあったが、アルバイトには興味があった。
私はポスターの電話番号をメモして帰り、翌日に電話をかけた。
簡単な面接が行われ、すぐに採用となった。
来週から研修だと言われ、指定された時間に店へ向かうと、そこは前に見たときよりも少しコンビニらしくなっていた。
雑貨の棚だけが出来上がっており、文房具やハンカチなどが整然と並んでいた。
店の中には、私と同じように採用されたアルバイトたちが集まっていた。
自分と同じ大学生くらいの女の子や、フリーター風の男の子に、少し年上の主婦と思われる女性、年齢も服装もバラバラの15人ほどのアルバイトが、ぎこちなく店内をうろついていた。
やがてトレーナーの社員が現れ、全員に制服が配られた。
制服に袖を通し、服装チェックのポスターに従って身なりを整えた。
髪が長い女性は縛り、時計やアクセサリーを外して列になると、さっきまでバラバラだった私たちが、急に「店員」らしくなった。
一番最初に練習したのは表情と挨拶だった。
笑顔のポスターを見ながら、その通りに口角をあげ、背筋を伸ばし、横に並んで一人ずつ「いらっしゃいませ!」
と言わされた。トレーナーの男性社員が、一人ずつチェックしていき、声が小さかったり表情がぎこちない場合は「はい、もう一度!」
と指示が飛ぶ。「岡本さん、恥ずかしがらないでもっとにっこり!
相崎くん、もっと声出して!はいもう一度!
古倉さん、いいねいいね!そうそう、その元気!」
私はバックルームで見せられた見本のビデオや、トレーナーの見せてくれるお手本の真似をするのが得意だった。
今まで、誰も私に、「これが普通の表情で、声の出し方だよ」と教えてくれたことはなかった。
オープンまでの二週間、二人組になったり、社員を相手にしながら、架空の客に向かって、ひたすら練習が続いた。
「お客様」の目を見て微笑んで一礼すること、生理用品は紙袋に入れること、温かい物は冷たい物と分けて入れること、ファーストフードを頼まれたら手をアルコールで消毒すること。
お金に慣れるためにとレジの中には本物のお金が入っていたが、レシートには「トレーニング」と大きく印字されていたし、相手は同じ制服を着たアルバイト仲間だし、なんとなくお買いものごっこをしているようだった。
大学生、バンドをやっている男の子、フリーター、主婦、夜学の高校生、いろいろな人が、同じ制服を着て、均一な「店員」という生き物に作り直されていくのが面白かった。
その日の研修が終わると、皆、制服を脱いで元の状態に戻った。
他の生き物に着替えているようにも感じられた。
二週間の研修の後、ついに店がオープンする日になった。
その日、私は朝から店にいた。
白くて何もなかった棚には、所狭しと商品が並べられていた。
社員の手によって隙間なく並べられたそれらは、どこか作り物めいて感じられた。
オープンの時間が来て、社員がドアをあけた瞬間、私は「本物だ」と思った。
研修で想定していた架空の客ではなく、「本物」だ。
いろいろな人がいる。