オフィス街だからスーツや制服姿の客ばかりを頭に浮かべていたが、最初に入ってきたのは、皆で配った割引のチラシを持った、住民風の集団だった。
最初の客は、年配の女性だった。
つえをついた女性が一番に入り、おにぎりやお弁当の割引のクーポンを持った客が大勢、それに続いて店に流れ込んでくる光景を、私は呆然と眺めていた。
「古倉さん、ほら、声出して!」
社員に言われ、私は我に返った。
「いらっしゃいませ!
本日、オープニングセール中です!
いかがでしょうか!」
店の中で行う「声かけ」も、実際に「お客様」がいる店内では、まったく違う響きで反響した。
「お客様」がこんなに音をたてる生き物だとは、私は知らなかった。
反響する足音に、声、お菓子のパッケージをかごに放り込む音、冷たい飲み物が入っている扉をあける音。
私は客の出す音に圧倒されながらも、負けじと、「いらっしゃいませ!」
と繰り返し叫んだ。まるで作り物ではないかと思うほど綺麗に並んでいた食べ物やお菓子の山が、「お客様」の手であっという間に崩されていく。
どこか偽物じみていた店が、その手でどんどん生々しく姿を変えていくようだった。
最初にレジに来たのは、店に最初に足を踏み入れたのと同じ、上品そうな年配の女性だった。
私はマニュアルを反芻しながらレジに立っていた。
女性はシュークリームとサンドイッチと、おにぎりがいくつか入ったかごをレジに置いた。
一人目の客がレジに来たことで、カウンターの中にいる店員の背筋がさらに伸びる。
社員の注目を集めながら、私は研修で習った通りに、女性客に向かって一礼した。
「いらっしゃいませ!」
研修で見せられたビデオの女性と全く同じトーンで、私は声を出した。
かごを受け取り、研修で習った通りにバーコードをスキャンし始めた。
新人の私の横についている社員が、素早く商品を袋に入れていく。
「ここは朝、何時からやってるの?」
女性が訊ねた。
「ええと、今日は10時からです!
あの、これからはずっとやっています!」
研修で習っていない質問にまだうまく答えられない私を、社員が素早くフォローした。
「本日より、24時間営業でオープンしております。
年中無休です。
どうぞいつでもご利用ください!」
「あら、夜中もやってるの?朝も?」「はい」私が頷くと、女性は「便利ねえ。
私はほら、腰が曲がって歩くのが大変だから。スーパーが遠くて困ってたのよ」と私に微笑みかけた。「はい、これからは、24時間営業でオープンしております。どうぞいつでもご利用ください!」横にいた社員の言葉をそのまま、私は繰り返した。「すごいわねえ。
店員さんも大変だわねえ」
「ありがとうございます!」
社員の真似をして、勢いよくお辞儀をした私に、女性は笑って「ありがとうね、またきます」と言い、レジから去って行った。
横で立って袋詰めをしていた社員が満足そうに頷いた。
「古倉さん、すごいね、完璧!
初めてのレジなのに落ち着いてたね!
その調子、その調子!ほら、次のお客様!」
社員の声に前を向くと、かごにセールのおにぎりをたくさん入れた客が近づいてくるところだった。
「いらっしゃいませ!」
私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。
私は、今、自分が生まれたと思った。
世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。
私はたまに、電卓で、その日から過ぎた時間を数えてみることがある。
スマイルマート日色町駅前店は一日も休むことなく、灯りを灯したまま回転し続けている。
先日、お店は19回目の5月1日を迎え、あれから15万7800時間が経過した。
私は36歳になり、お店も、店員としての私も、18歳になった。
あの日研修で一緒に学んだ店員は、もう一人も残っていない。
店長も8人目だ。
店の商品だって、あの日の物は一つも残っていない。
けれど私は変わらず店員のままだ。
私がアルバイトを始めたとき、家族はとても喜んでくれた。
大学を出て、そのままアルバイトを続けると言ったときも、ほとんど世界と接点がなかった少し前の私に比べれば大変な成長だと、応援してくれた。
大学一年生のときは土日含めて週4日だったアルバイトに、今は週に5日通っている。
いつも家に帰るとすぐに、狭い六畳半の敷きっぱなしの布団の上に身体を横たえる。
大学に入った時、私は実家を出て家賃の安い部屋を探して住み始めた。
いつまでも就職をしないで、執拗といっていいほど同じ店でアルバイトをし続ける私に、家族はだんだんと不安になったようだが、そのころにはもう手遅れになっていた。
なぜコンビニエンスストアでないといけないのか、普通の就職先ではだめなのか、私にもわからなかった。
ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった。
両親は甘く、いつまでもアルバイトをしている私を見守ってくれている。
申し訳なく思い、二十代のころ、一応就職活動をしてみたこともあるが、コンビニのバイトしかしていない私は、書類選考を通ることさえめったになく、面接にこぎつけても何故何年もアルバイトをしていたのかうまく説明できなかった。
毎日働いているせいか、夢の中でもコンビニのレジを打っていることがよくある。
ああ、ポテトチップスの新商品の値札がついていないとか、ホットのお茶が沢山売れたので補充しなくては、などと思いながらはっと目が覚める。
「いらっしゃいませ!」という自分の声で夜中に起きたこともある。
眠れない夜は、今も蠢いているあの透き通ったガラスの箱のことを思う。
清潔な水槽の中で、機械仕掛けのように、今もお店は動いている。
その光景を思い浮かべていると、店内の音が鼓膜の内側に蘇ってきて、安心して眠りにつくことができる。
朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。
そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。
朝の8時、私はスマイルマート日色町駅前店のドアを開ける。
仕事は9時からだが、早く来てバックルームで朝食を食べることにしている。
店につくと、2リットルのペットボトルのミネラルウォーターを一本と、廃棄になってしまいそうなパンやサンドイッチを選んで買い、バックルームで食事をする。
バックルームには大きな画面があり、そこには防犯カメラの映像が映し出されている。
夜勤に入ったばかりの、新人のベトナム人のダットくんが必死にレジを打っている様子や、慣れない彼をフォローしながら店長が走り回っている様子を眺めながら、何かあったら制服を着てバックルームの外へ走っていきレジを手伝おうと構えつつ、パンを飲み込む。
朝、こうしてコンビニのパンを食べて、昼ごはんは休憩中にコンビニのおにぎりとファーストフードを食べ、夜も、疲れているときはそのまま店のものを買って帰ることが多い。
2リットルのペットボトルの水は、働いている間に半分ほど飲み終え、そのままエコバッグに入れて持ち帰り、夜までそれを飲んで過ごす。
私の身体の殆どが、このコンビニの食料でできているのだと思うと、自分が、雑貨の棚やコーヒーマシーンと同じ、この店の一部であるかのように感じられる。
食事を終えると、天気予報を確認したり、店のデータを見たりする。
天気予報は、コンビニにとってとても大切な情報源だ。
昨日の気温との差も重要だ、今日は最高気温21度、最低気温14度。
曇りのち、夕方からは雨の予定だ。
気温よりも寒く感じられるだろう。
暑い日はサンドイッチが売れ、寒い日はおにぎりや中華まん、パンがよく売れる。
カウンターフーズも気温によって売れるものが違う。
日色町駅前店では寒い日はコロッケがよく売れる。
ちょうどセールでもあるので、今日はコロッケをたくさん作ろうと、頭に叩きこむ。
そんなことをしている間に時間は過ぎ、店には少しずつ、私と同じ9時からアルバイトをする昼勤の人たちが集まってくる。
8時半を過ぎたころ「おはようございますー」というハスキーな声がして、ドアが開いた。
バイトリーダーとして信頼がおかれている泉さんだ。
私より一つ年上の37歳の主婦で、少し性格はきついが、きびきびとよく働く女性だ。
少し派手な服装で現れ、ロッカーの前でヒールの靴をスニーカーに履きかえている。
「古倉さん、今日も早いねー。
あ、新商品のパンだ。
それ、どう?」
私が手にしているマンゴーチョコレートのパンを目にした泉さんが言う。
「少しクリームに癖があって、匂いが強くて食べにくいです。
あんまり美味しくないですねー!」